JR筑前前原駅から歩いて7分ほどの住宅地。脇道に入って細い裏路地を進んだところに、アカリズムのアトリエがあります。このアトリエの主、カトウチナツさんが作っているのは、ミツロウキャンドル。ミツバチの作り出す天然のミツロウを使った、甘い香りのするキャンドルです。
イチゴにケーキ、ときには鬼やキノコなど多彩でかわいい、見て楽しめるキャンドルを生み出すミツロウキャンドル作家、カトウチナツさんにミツロウキャンドルに込められた「イズム」(主義)を伺ってきました。
メッセージの詰まったミツロウキャンドル
市販のロウソクの多くは、パラフィンという石油から精製された物質から作られているのに対し、ミツロウキャンドルのミツロウは、ミツバチが体内でハチミツを加工して生み出したもの。もとはハチミツなので、ハチミツのような甘い香りがするのです。糸島くらしマーケットなどで人気のミツロウキャンドル作りのワークショップは、いつもミツバチの写真を見せながら、ミツバチの暮らしについて話をするところから始まります。
「ワークショップを始めた頃から、写真を見せながらしゃべるスタイルです。作っているものについてちゃんと知ってほしいですし、それを説明することで特別な思い入れを持ってもらえると思っています。(中略)ロウソクのことだけじゃなくて、自分たちが食べているものがどうやってできているのか、どういう人が関わっているのか、そういう全部がつながっているんだっていうことを気づいて、思い出してほしいというのもあります。」
あまりにかわいいキャンドルなので、なんだか火を灯すのがもったいないような気持ちにもなります。でも、チナツさんは火を灯して楽しんで欲しいと言います。どうやらミツロウキャンドルには、チナツさんの「人と灯り」というテーマに対する特別なメッセージが込められているようです。
活発だった子ども時代
博多生まれ、博多育ちのチナツさん。伝統の祭り文化が根付いた環境で育ち、0歳から小学4年生になるまで、締め込みにサラシを巻いて山笠に参加していたという根っからの祭りっ子。男の子とケンカすることも少なくなかったというほど、活発な子ども時代を過ごしました。
チナツさんの地元には、不思議とロウソクに関係した行事もありました。例えば「千灯明」は昔ながらの町並みが息づく地域では今も続く夏の行事で、お不動様の前にロウソクを一列に並べて、子どもたちが火を灯します。山笠の勇壮さとはまた異なる、幻想的な雰囲気でやさしく灯るロウソクは、今思えばチナツさんの子ども時代の原風景として、心に染み入るものがあったのかもしれません。
小学校も中学校も小規模だったので、一人ひとりのキャラクターをみんなが知っているような、地域の温かい人間関係の生きた環境で学校生活を送りました。中学では生徒会活動に精力的に携わるようになりますが、高校に進学すると、規模が大きくなったせいか、自分の立ち位置がわからなくなったと言います。やがて高校を中退。マンションの一室の小さなフリースクールに通いながら、進学するためにアルバイトをし、大検予備校に通い、大学入学資格検定(現在の高卒認定試験)をとります。
多くの人の中でも自分のスタンスを大切にして、実現したい未来に向かって確かに歩みを進めていくチナツさんのスタイルは、この頃からじわじわと培われたのかもしれません。
形にする以外のことも大事なんだ
実家の建て替えを契機にインテリアに興味がわいたチナツさんは、大検取得後、滋賀県の成安造形大学の住環境デザインクラスへと進学しました。大学時代は楽しかったと語る一方、苦手だったのは、スチレンボードで100分の1サイズの建造物の模型を作ることでした。
「模型は作ったものを体験できない。だから面白くなかったんです。(中略)実用的でなければいけないとは思わないけど、模型は何かを作る前のもの。最終段階がやりたいんです。家を作るなら、実際に建てたい」
そんなチナツさんにとって、大きな出会いだったのが「ナマケモノ倶楽部」との出会いです。ナマケモノ倶楽部は東京に本部がある環境と文化に関するNGO。大学3年から所属したゼミには、ナマケモノ倶楽部世話人の辻信一さんのご兄弟に当たる、大岩剛一先生がいました。
学生有志でナマケモノ倶楽部関西支部を名乗って活動し、環境や文化のイベントに出たり、グッズを制作したり、ブースのデザインをしたり、ストローベイルハウスという持続可能な住環境をコンセプトにした自然素材の家作りにチャレンジすることもありました。
大学4年生のときには、当時のアメリカのブッシュ政権のエネルギー政策に反対するためにカナダから始まった、電気をオフにしてロウソクの灯りで過ごしてみる「キャンドルナイト」という世界的なムーブメントが起きました。その日本でのアクションにはナマケモノ倶楽部が関わり、大学の研究室でもキャンドルナイトのアクションを行いました。
そのようなたくさんのグループワークを通して、チナツさんは持ち前のプレゼン力や企画力にさらに磨きをかけます。
「ゼミの大岩先生や、もう一人お世話になった先生がいて、形にする以外のことも大事なんだってことを認めてくれたんです。コンセプトを作る力とか、プレゼンテーション力とか、企画をする能力の部分も認めてくれたから、大学が楽しくなったという気がします」
自分なりのメッセージを込めた作品作りに自信を持ち、卒業制作ではダンボールの「巣」を制作。ダンボールを何枚も重ねた断面の積層が好きだったというチナツさんが作ったのは、ダンボールの断面を生かした、実際に人の入れる300kgもの造形物。制作後はお寺で展示した後、東京のカフェスローギャラリーで展示、その後も障害者施設の体育館で、遊び尽くされるまで置いてもらったと言います。作品をただの飾り物で終わらせないそのスタンスは、現在にもつながるものを感じます。
サステイナブルなものづくりの方が美しい
大学を卒業後、照明メーカーに勤め、東京の家具のショールームで広報の仕事をします。数年の勤務を続けますが、次第に会社という仕組みにうんざりしたと言います。
「照明器具や家具のデザインがしたくて照明メーカーに入ったのですが、同期を見ても、会社全体を見渡してみても、会社でずっとがんばっても照明器具のデザインはできないんだと思うようになりました」
東京で2年勤務した後、大阪の家具と照明のショールームに転勤。それでも何か自分の手で作り出したいという思いから、ロウソク教室に通い始めます。
「照明メーカーだし、(大学時代から考えていた)『人と灯りとは』みたいなこととまたつながっていたから、ロウソクでも作るかって思ったんです。OLの習い事で(笑)」
作ったものは人にプレゼントするようになり、それが喜ばれると、さらにチナツさんならではのこだわりを盛り込みたいという思いが強くなります。そこで考えたのが、ミツロウでのキャンドル作りでした。
「ナマケモノ倶楽部のときの仲間たちのなかにミツロウの輸入をしていた人がいたので、じゃあミツロウ分けてって頼みました。教室にはパラフィンしかなかったんです。パラフィンはパラフィン臭い。あと、パラフィンは化学実験的な計量をしなければならず、それも苦手でした。パラフィンが石油精製品っていうのはわかっていましたし、大学時代からどちらかと言ったら自然素材のものづくりでしたし、サステイナブルなものづくりの方が美しいと思っていたので、ミツロウを友達から分けてもらいました」
その後は実際にミツロウで何ができるか試行錯誤を繰り返し、さらにオリジナリティのある技術を高めていきました。
こうして大学時代から培ってきた「人と灯り」に対する想いが、ついにミツロウでのキャンドル作りに結実します。しかし、それからすぐにアカリズムの活動を始めたというわけではありませんでした。
普通に生きなくてもいい
2008年、会社を退職した後、チナツさんはナマケモノ倶楽部とパナソニックと博報堂による「アースキャラバン2008」というプロジェクトに、事務局スタッフとして関わります。そのことが、アカリズムの活動を力強く後押しするきっかけになりました。
「日本縦断のキャラバンで、面白い人にいっぱい会うんです。ナマケモノ倶楽部のつながりのなかから各地のローカルでがんばっている人をピックアップして、徳島の上勝でゴミゼロ運動やっているところに行ってみたり、わらじを子どもと編んだり、西表島でバショウの木でいかだを作って藍染でバショウの布のフラッグを立てたり、長野でヤギの乳搾りをしたり、北海道で人参のお焼きを作ったりしながら、それぞれの専門家でローカルなキーマンに会って、何日か泊まって、一緒にイベントやって仲良くなりました。みんな普通に生きてない人ばっかりだったから、これは別に普通に生きなくてもいいやって思ったんです。それまではインテリアコーディネーターの資格をとったり、再就職をするつもりだったんですが、別にそうしなくても何とかなるかなと思うようになりました」
このプロジェクトを通じて多様な生き方をしている人に出会い、会社勤めに疑問を感じていたチナツさんの中で何かが吹っ切れたのかもしれません。仕事と自分を切り分けるような生き方ではなく、自分と仕事をもっと近づけたかったと言います。
そして、2008年9月、「akarizm」(アカリズム)として東京で活動をスタート。屋号は最初から決めていました。アカリのリズムでもあり、イズムでもあり、言葉の響きも快いので気に入っていました。
東京から福岡
活動当初は固形のミツロウを使ったキャンドルを作って、展示会やカフェなどで販売することから始めました。ほどなくキャンドル作りのワークショップもするようになり、アカリズムとして順調に活動の場を広げていきました。
活動を始めて2年半後の2011年3月、東日本大震災と福島第一原発の事故が起こります。
もともと原発に反対で、事故が起こったときはどうするかもリアルに考えていたチナツさんは、いざ本当に事故が起こると、テレビやSNSなどの情報も見て「逃げなきゃ」と判断したと言います。
「母からも電話がかかってきて、『まぁ後で何もなかったら何もなかったで、笑いごとでいいけん、とりあえず帰ってきたら?』という話になって、それで飛行機に乗りました。私はもう、この世の終わりみたいな気分でした」
3月13日の夜、福岡行きの飛行機に乗ります。
「その後も行ったり来たりしていました。その時点では福岡に帰ろうと決めていたわけじゃなくて、様子を見て、その後何回か東京に戻りましたし、そんな、東京は住めないと今も思っているわけではありません。ただ、いつか福岡に帰りたいっていうのが心の中にあったので、震災がそのきっかけだったかなと思います」
やりたいことはいっぱいあるけど、できることはちょっとずつ
最初は実家のある福岡市内に住み始めますが、すぐにアースキャラバンのつながりから知り合った友人に「糸島いいとこよー、どう?」と紹介され、翌4月にはここのきを訪ねました。そして、早くもその年の夏休みには糸島くらしマーケットでのワークショップを実施します。そのワークショップには、固形のミツロウではなく、ミツロウシートを使っていました。
「原発事故があって、とるものもとりあえず行ったり来たりしたから、ミツロウシートの方が大がかりな荷物がなくても作りやすいんです。塊じゃなくて。ハサミがあれば作れるから」
固形のミツロウが値上がりしたこともあり、ミツロウシートが安く輸入できるルートを友人づてに開拓。そのことで、新たに色々な作品作りに挑戦してみたり、ワークショップで使ってみたりできるようにもなったと言います。
六角形のハニカム模様のミツロウシートは、元々の役割はミツバチの巣箱に入れて、巣作りの基礎となるシートなんだそう。重ねた雰囲気はどこかダンボールの積層にも通じるものがあり、そのせいもあってか、チナツさんにとってお気に入りの素材になったようです。今ではアカリズムと言えばミツロウシートが思い浮かぶくらい、すっかりおなじみとなっています。
2016年春には、作り手同士の横のつながりの強さや魅力を感じて、本格的に糸島に移り住み、アトリエを構えました。
「雑誌の取材もくるし、糸島っていう響きに助けられている感じはあるかもしれないですね。まだわからないけど。そんなにドカーンとやっても困るし、様子見ながらちょっとずつ。やりたいことはいっぱいあるけど、できることはちょっと。徐々にですね。糸島化するのも、徐々にでいいかな」
糸島くらしマーケットなどのイベントのほか、アトリエでも予約制でワークショップの体験ができるようになりました。拠点を設けたことで、糸島のアカリズムとしてどんな新たな展開があるのか、期待が膨らんでしまいますが、気長に見守っていきたいところです。
糸島の人と灯りにも、メッセージのこもったアカリズムの温かく柔らかなリズムが、きっとこれから少しずつ、響いてゆくことでしょう。