工房を訪ねたのは、まだ肌寒さの残る春のこと。ヒジキを煮込む釜からは、もくもくと湯気が立ちのぼっていました。工房の主は山下商店の山下浩典さん。山下さんのお話からは、わき上がる湯気のごとく、あまりある情熱が伝わってきました。
糸島市で水産加工品を製造する山下商店は、糸島産干しわかめや干しひじきをはじめ、糸島産天然塩またいちの塩を使った「いとしおわかめ」など、昔ながらのようでどこか新しい、糸島の海を毎日の食卓から感じることのできる商品を生み出しています。
情熱あふれる語り口から、よっぽど仕事がお好きな方なのだろうと思いきや、意外にも冗談交じりに「仕事が嫌い」という言葉が聞こえてきました。でも、文字通りの仕事嫌いならこれだけの仕事ができるはずはありません。裏腹な言葉の背景には、山下さんの糸島産海産物にかける並々ならぬ情熱がありました。
■糸島にいるなら糸島のものを
創業20年の山下商店で加工するひじきやわかめなどの海産物は、すべて糸島産。とはいえ、創業当初の山下商店は、各地の漁協から仕入れて小売店に卸す問屋業を専門に行っていて、自社での加工を始めたのは近年のことだと言います。
「糸島にいるなら糸島のものをと、干しわかめは10年前から、干しひじきは4年前に始めました。」
山下さんはそれまでの問屋業だけでは実現できなかった、糸島産海産物にこだわる新たなチャレンジを始めたのです。
こだわるのは単に糸島産という点だけではありません。流通品のひじきの中には見栄えを良くするために、添加物を加えたり、必要以上に長時間煮込んだりするものもあるそうです。山下商店のひじきは、煮る時間が少なく、素材本来の食感が残る製法にこだわり、それでいて無着色。見せかけの良さではなく、糸島産の素材がもつ本来の味、食感、香りの良さをいかに引き出すか、徹底的にこだわる姿勢がありました。
■糸島という大きさはちょうどいい
糸島という地域にこだわることは、商売としてはリスキーだと山下さんは言います。海の状況によって収量が大きく変動するにもかかわらず、産地を狭く限定しているため、生産量の変動がより大きく、場合によっては商売にならないからです。
「リスクを減らそうと思ったら、福岡県産としたほうがいいんです。生産量を上げるなら、九州産がいい。さらに上げるには、国産です。でも、そうなると面白味がなくなります」
糸島という地域にこだわる道を選んだことで、山下さんは糸島の漁師と直接コミュニケーションをとり、顔の見える関係の中で仕事をすることになりました。そこではその時々の海の状況や漁師の想いを知ります。そこから、さまざまな想いをもとに工夫しながら、新たな商品のアイデアを生み出すことにもなりました。
「生産量で競っても大手には敵いません。限りのある中でどうやるか。それが楽しい。やりがいがあります。『糸島』という大きさはちょうどいいんです。」
■漁師が身近な存在だったから実現できた
とはいえ、このようなスタイルの仕事は誰もが実現できることではありません。山下さんが実現できたのには、ちょっとした理由がありました。
「陸上部の友達が漁師の家でした。中学、高校、大学といっしょに海に行って、サーフィンとかするわけじゃないんですが、ずーっと、バーベキューしたりナンパしたりも含めて(笑)海と関わっていました。まぁ、だからこの仕事をしているというわけではなくて、たまたまですが」
福岡出身の山下さんは幼い頃から身近に海がある環境で育ち、漁師の家の子と仲が良かったからこそ、今も漁師に対する壁がなく、話しやすいのかもしれないと言います。
漁師は自然相手の予測できないものを相手に、常に競争にさらされる厳しい世界にいます。他所から足を踏み入れようとしても、ともすれば敷居の高い世界に感じられてしまうかもしれません。
思えば、たとえ私たちの暮らしがどれほど海に支えられ、海産物に喜びを感じていたとしても、そんな状態では想いを漁師に直接届けることは難しく、それは互いにとってさみしいことでもあります。その意味でも、山下さんは海の人と街の人をつなぐ貴重な存在かもしれません。
■今は自分でやるのが当たり前で、自分でやるのがベース
山下商店を継ぐ前の20代の頃、山下さんはサラリーマンを経験しました。
「30歳になると、『自分で(仕事を)作っていきたい。自分で組織を作りたい』と思うようになったんです。思い切って仕事をやめました。」
商品への情熱とは裏腹に、ご自身については多くを語らない山下さん。「根拠のない自信があった」と笑いますが、ここに至るまでには、辞めるときには想像していなかった多くの苦労もあったことでしょう。にも関わらず、山下さんはこう言い切ります。
「サラリーマンの方がきついです。今は自分でやるのが当たり前で、自分でやるのがベースにあります。だから、きついと思いません。」
何もかも自分でしなければならない事業は、傍から見れば余計に大変な仕事に思えます。でもそれが、山下さんにとっては、やりがいだというのです。自分でリスクを負って、自分で開拓する。冗談交じりに「仕事が嫌い」という言葉をしばしば挟む山下さんですが、本当に「やりがいのある仕事」というものと真摯に向き合い、とことん追求してきたからこそ、言えることなのでしょう。
■子どもたちの口に入るようにしたい
3人の子どもの父親でもある山下さん。山下商店の商品も若い親たちが興味を持てるようなものにして、子どもたちの口に入るようにしたいと、デザインにも工夫をこらします。
自分でリスクを負いながら、糸島という顔の見える範囲で、本当に良いと思えるものを追求してきたからこそ、心から子どもたちにも食べてほしいと願うのかもしれません。
毎日の食卓の中に糸島の海産物があることの意味を、あらためて考えさせられた取材でした。